• のじょみ

人生議事録の予習~自己紹介~

最終更新: 8月1日






Namaste!



2019年7月よりこのプラットフォームに来てから特に自己紹介を書いていませんでした

昔々のブログを読んだらどういう背景のある人間か分かると思いますが

何せ8年分と多過ぎるので、ここで背景すべて記録しておきます

27歳のわたし自身の言葉で。 誕生から幼少期

1992年の9月に母の実家の横浜の病院で産まれました。

その時父はMBAの為に既にアメリカに渡っていたので生後3カ月でわたしは飛行機デビュー

2歳まで、アメリカのノースカロライナ州で育ちました(記憶は全くございません泣)

小さい頃から目立ちたがりで人を笑わせるような変わったことをするのが好きでした

親が今でも語るのが、幼稚園の授業参観で勝手にひとりで椅子をひっくり返して倒れたりしていたらしいです



小学生

ひとりで変なことをしているタイプのまま東京都の西の方で育ちました

特定のグループに属するとかが無く、何故かいじめられっ子をかばって仲良くしていました 小学4年生から青いカバンの某N塾に通い、中学受験をしました



中学生

国分寺の制服の可愛い共学校に落ちて

豊島区の毎朝5分縫物をすることで有名な女子校に入学しました

ひとりでドキドキ見に行った合格掲示板に自分の番号が無かったのはかなりのショックと挫折でした@12歳

国分寺駅で母と号泣したのを覚えています

とはいえ、都会好きな母は学費も安かった豊島区の学校で喜んでくれました

この頃大好きだったバイブルの漫画はまち子さんでした(正式名称が出てこない)



晴れて入学後、友達作りにすごくドキドキしながら通っていましたが

マンドリン部に入部します。

そして得意科目はいつでも英語でした。先生から、試験の模範解答に使ってもらうことが多かったです。勉強が本当に好きでした。

マンドリン部で、女子校ならではのいじめが起こります。

そして、学級崩壊も起こりました。

つらくて、好きな勉強にも身が入らず、完璧主義が苦しめます

日本人はもう無理と思ったわたしはADSLの中、必死に海外に友達を探します

そこで出会ったのが今も繋がっているスウェーデン人とリトアニア人の友達です。

とある春の日にHello Saferideというスウェーデンポップにタワレコで出会い

彼女のLong Lost Penpalという歌にインスパイアされて、スウェーデンに一番に友人を見つけました。



この頃から鬱っぽさが出てきます

自分がおかしいと思ってひとりで精神科に行ったりもしました




高校生

ついにマンドリン部を退部して、書道部に転部しました

進学校だったので、2年生から大学受験が本格化し、

完璧主義に加えてもやもやした未来への不安

そして好きになれなかった自分の顔のせいで鬱が加速します。

この頃感謝しきれないほどお世話になったK先生とM先生は今もお元気でしょうか。



今思っても自分で言うのも変ですが青春なんて皆無の可哀そうすぎる高校生活でした

2010年の11月に自分で命を絶とうとしましたが生還しました

親にも大変な迷惑と心配をかけました

鬱の病院にも通い始め、大学受験後死人と化したわたしは閉鎖病棟へ入院したりしました



2年生の時の英語の変人先生から

「Now is the best of all possible worlds.」というライプニッツの哲学を教えてもらいました

それが今でも私の人生のモットーとなっています。





大学生

晴れて第一志望だった東京の外国語大学に入学しました

実は、受験した外国語系の私立大学5校全てにも合格できました 今ではよく頑張ったと思えています



しかし今度は自分の考えで履修を決めて行動しなきゃいけない自由さ、

そして好きで意味があることが見つからない不安定さに戸惑い、鬱が治りません

1年生の後期に言語学の授業に出会うまで、大学に行くことが難しかったです

その言語学の先生とはバイブス(笑)が合いすぎて仲良く、かつ大分支えてもらいました

今でも繋がっていてくれる大事な恩師です



サークルはTable for Twoというアフリカ飢餓に貢献できる団体に所属していました

ですが、得られたものは楽しい飲み仲間

よくDeep Blueでオールしてました(外大生あるある?)



そして大好きな言語学のゼミに所属し

カナダのレジャイナという町に1年派遣留学させてもらいました

初めて親元を離れたことで、自分への自信を少し獲得しました

ここでやっと英語を流暢に話すスキルが身に着きました



帰国後は大好きなゼミメンバーにすごくすごく支えられながら

(ゼミ中に教授の横で化粧したりしてたw)

不眠にまで追い込まれた就活で一番最初に内定をもらった某大手メーカーに入社を決めて

色んな変人に出会いながら、そして確実に味方で居てくれる友人を得ながら

学生生活を締めました。



重大なターニングポイントは卒業旅行

誰も一緒に来てくれなかったのでひとりでインドへ2週間来ました。

父がたまにふらりと寄っていたチャイハネという民族雑貨屋さんでインド文化にハマり

さらに旅人の元カレの影響を受け、NOW or NEVERで飛び出しました

あの時のわたしの勇気と素晴らしい決断に今のわたしは満足しています

(ということでインドへ移住しちゃったのは元を辿れば父の影響なんですよ)




社会人~日本編~

大阪のメーカーに入社後、配属されたのはなんと

「国内営業(かつグループ営業会社へ出向)」

大手ならではの3年国内で頑張ったら(もしかしたら)海外行けるよ的なものでした

配属先の難波で運転が下手で憂鬱になりながら卸営業をしていました

大阪卸独特のビジネスと仕事量の多さに毎日ひぃひぃでした

そして見えない自分の未来への不安がどんどん日に日に増していきました

鬱もまだ完治はしていなかったので、病院に通っていました

難波で神のような主治医と出会い、自分に最適な薬にも出会う

薬のmgはどんどん増え、限界にまで来ていたので

「はやく仕事を辞めなさい」そう言われていました



丸2年が経った頃、ついに気絶をしました

顎関節を骨折し、歯も3本折りました



前々から考えていたインド現地採用への挑戦を実行しました

そして2週間で転職が決まりました

もちろん、ここでやり遂げて無駄になることは無かったと思う

でも、無理をしてまで見えない不確実な未来の為に頑張りたいと思えなかった

同じ失敗をするなら、大好きなインドで挑戦をして学びたかった

20代の大事なキャリアを、可能性を、縛られたくなかった




社会人~インド編~

日系企業のインド支社で日印顧客対応、マーケティングをさせてもらいました

配属はデリーでしたが、ムンバイにしょっちゅう出張させてもらっていました

実はインド顧客はムンバイに居て、デリーでの限界を感じたので

ムンバイへの転勤が後々決まりました



ムンバイ転勤後、プライベートが崩壊したのもありましたが

この仕事は私でなくともできる、と成長が見込めなくなり

デリー生活1年で培った人脈で面白そうな仕事を紹介され

人助けも兼ねて国内転職を決めました



特に技術屋さんのようなスキルがある訳ではないですが

「日本と外国(異文化)の間の架け橋としてお互いの文化やマインドを考慮したうえで、

ベストなサービスをお客様に提供する。」

それがわたしが磨いていきたいスキルだと現時点で確信できたので

それができるサービス業に現在従事していますが

感染症拡大の影響で大変なことになってしまいました。

病気の方は、症状はそんなに出てこなくなってきました

でも、たまに躁っぽかったり変に落ち込み過ぎたりするので どこでも何の薬でも買えるインドなので、通院せずに同じ薬を所持していますが

2020年3月のロックダウンから断薬に本格的に取り組んで、今は完全に離脱しました!

…しかし、ステイホームでなくなったら、いつぶり返すかは分からないので

あとは自分のマインドを前向きな良い方向へと変えていければ

きっと日本に帰っても、インドで培った経験とともに自分の人生を彩っていけるのではないかと

そんな30代を楽しみに日々全力で頑張っています。

なにより、ここまで来られるように育ててくれたパパママに感謝ですね



現在、本気国に向けて色々準備をしています。




こんな感じの人間が綴っているマインドとキャリアについての議事録ブログです。

これからも宜しくお願いします。









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